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『われわれはなぜ死ぬのか』 柳澤桂子 【読書感想】

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内容

私たちは、生れ、成長したあと、老いて死んでゆくものだと思っている。けれどDNAは受精の瞬間から、死に向けて時を刻み始めている。産声を上げる10ヶ月も前から、私たちは死に始めているのだ。生命が36億年の時をへて築きあげたこの巧妙な死の機構とはどのようなものなのだろうか? 私たちの生命にとって老化と死は、逃れられない運命なのだろうか? なぜ生物には死がプログラムされるようになったのだろうか?
これまでだれも語ることのなかった死の進化をたどり、われわれはなぜ死ぬのかを考える。クローン羊、脳死法案など死と生命の倫理が問われる現在、生命科学者柳澤桂子が死の本質に迫る画期的な書。 — 本書より引用

感想

このタイトルから何を思うだろうか?生あるものはいつか滅び衰え死ぬ。それはあたり前のこと。

いつからこう考えるようになったかは定かではないが、わたしには(恐らく多くの方も)こういう思いが意識の底に刷りこまれている。半ば常識のように染み込んだこの考えも、本書を通じ「生命の死」における極めて一面的な見方でしかないことが明らかとなる。

意識の中の死

冒頭、拘束されピストルを向けられた青年の写真について著者は語る。 その後その青年は撃ち殺されるであろう光景から想像を巡らせ、呼吸、心臓が停止して最終的に完全消失するまでを子細に描写している。

見知らぬ青年の死の話から、わたしは身近な者の死や自分自身の死について想像する。畏れ、そして恐れ、無力感へと引きずりこまれる。

これは先ほど書いたとおり、わたしが認識する「死」に基づいて浮かんでくるものである。 それはつまり、じっさい肉体的に起こる死そのものというよりは、人間の意識上に存在する死の概念のことであると、著者は指摘する。

これまでにみてきた死は、一人の人間という個体の消滅であり、生の終わりである。それは人間の生涯からみると、点としての死でもある。また、私たちが人間として感じている死であり、社会が受け止めている死でもある。そのような意味でそれは人間の意識の中の死ということもできる。 — 本書 P34より引用

では「意識の中の死」以外の死、というものは何であるか。

地球上におけるさまざまな生命活動を知ることにより、わたしの中に凝り固まったこの概念的な死の認識は、いとも簡単に散る。

さまざまな生命

著者はミツバチ、サケ、針葉樹やサンゴなど、いくつかの生物における生の多様性について説明する。

  • 女王蜂の一生はとても興味深い。成虫になると交尾を繰り返して500万もの精子を蓄え、それらを受精しつくすと雄に殺される。
  • 人間における寿命というものではなく、役目を失ったものの排除とも取れる。
  • サケの死などは、雄は精子を卵にかけ終わると死に、雌は産卵を終えると死ぬというもの。
  • これは生殖にその他の機能が崩壊するほどに身体中の養分を集中させるためとのことである。
  • さらに興味深いのは植物で、メタセコイアという針葉樹などは樹齢が長いと死にやすい。
  • つまり老衰という傾向が見られず、分裂組織の増殖能力は無限であり、死は外的要因による。

ざっと眺めてみるだけで、私が認識していた「死」は、いかに狭い世界におけるものであったかを痛感させられる。これだけ多様である死は、本質的には生命を形作る細胞の死であり、これらを解き明かそうと著者は試みる。

「死とは何か」ということを三六億年のスケールでとらえて、深く考えてみたいと思う。 — 本書 P49より引用

何とわくわくするセリフであることか。

生命の歴史、死の起源と進化

ここから36億年前、地球上に生命が誕生して以降の生命の流れが丹念に語られるのだが、その壮大さに圧倒される。

まだ酸素がない地球上では紫外線などさまざまな障害があり、そこで誕生した生命はその瞬間から生存のための闘いが始まっていたとも言え、生命の歴史は生存競争の歴史でもあるという。

はるか古代の原始生命は、生命を繋ぐために遺伝情報(当初はDNAではなくRNAが伝達分子ではないかとされている)を正しく受け継いでいくためにさまざまな進化をとげる。

紫外線などに破壊され、異常となったDNAが増殖しないように修復する機構や、修復できなかった細胞や、危険な細胞を除去するために自爆させる(アポトーシスという)機構などを早い段階から手にしている。

アポトーシスという能動的な死(反対に受動的な死をネクローシスという)が、原始の時代に存在していることに大きく引きつけられた。また、このアポトーシスは人間にとっても身近なものである。一例として胎児の手ができる様子を説明している。

胎児に手ができてくるときには、まず丸い肉の塊がからだの脇に盛り上がってくる。その先端部分で四本の筋を入れるように細胞が死ぬので、肉の塊に切れ目が入って指ができる。この際の細胞死はアポトーシスである。 — 本書より引用

この他、体内時計の原因とも言える細胞分裂の周期や、細胞分裂を行う際の複雑なチェック機構など、かなり詳細に説明がなされている。だが、36億年の歴史を経て、いまなお生命活動を続けているわれわれ人間ふくむ生物は、きびしい生存競争を生き抜くために進化させた機構が環境にマッチしかつ運良く生き残ることができたものと言える。

そしてその生き残るための進化とは、遺伝情報を多様化させ生き延びる可能性があるものを増やすことでもあり、われわれ人間も個々に多様な遺伝情報を持つこともその現れである。

今こうやってブログを書いているわたしの生命というものは、綿々と36億年のあいだ受け継がれてきた流れの中にあるわけで、そう考えるとさまざまな思いが去来してくる。

しかしそうすると、この長大な歴史の中において、生命の死というのは、たとえばわたし自身が死ぬということはどういうことなのであるか。

「生と死」ならぬ「性と死」

われわれを形づくる細胞のうち、生殖における細胞融合(2つ以上の細胞から1つの雑種細胞が形成される現象)のためにつくられる細胞を生殖細胞といい、そのほかの細胞を体細胞と呼ぶそうだ。

体細胞はその個体が死ぬと消滅し一代で一生を終えるが、生殖細胞は別の生殖細胞と受精することで子どもという新たな個体となって生き残る。生殖細胞は受精によって生き長らえることから不死の細胞とも言える。

36億年受け継がれてきたこの生命というのは、生殖細胞の連続性のこととも言える。生命活動を主に考えると、下半身が本体でそれ以外が部分であるのかもしれない。

生殖細胞と体細胞の違いでおもしろいのが、たとえば生殖細胞はわたしという個体を作り上げるのに必要な遺伝情報をすべて利用可能な状態で保持しており(全能性という)、これに対し体細胞は、分化していくことで全能性を失うという。

爪の一部となった体細胞は、その爪の一部をひたすら再生し続ける機能しかないが、生殖細胞はわたしをそっくり再生できるようなものか。

しかし体細胞の失われた全能性というのは、単純に分化した目的以外のスイッチをオフにしているようなものであり、何らかの方法ですべてのスイッチをオンに戻せれば全能性を再び取り戻すことになり、クローン技術などはこのあたりの研究によるという。

あらためて死とはなにか

この長い長い生命の旅を終え、著者はこう述べて、昨今の医学の進歩に警鐘を鳴らす。

このように見てくると、私たちの意識している死というものは、生物学的な死とはかなり異質なものであることが分かる。生物学的な死は三六億年の歴史を秘めたダイナミックな営みである。それは適者生存のきびしい掟である。一方、私たちの意識する死は人間の神経回路のなかにある死である。それは意識の中の死であり、心理学的な死である。死は私自身の問題であり、親しい者に悲しみをあたえる。それは三六億年の歴史とは無関係な感情であり、むしろ静的なものである。 — 本書より引用

医療行為とは生を繋ぐためにあり死を否定する。

しかし、生物学的に見ると、死とは生の営みにおいて必要不可欠なものであり、この摂理に抗い突き進むことへの警鐘である。

読み終えて抱く生と死のイメージ

わたしはわたしという個体の主であると当然のように思い生きてきた。いま思うのは「わたし」という存在はつまり一代限りの体細胞の、神経回路の中にだけ存在するものであり、本質は生殖細胞が主なのではないか、ということだ。

生命が生存に有利であるという理由で生み出した体細胞の上に「わたし」は存在し、それは生殖細胞が活動し命を繋ぐ過程における「おまけ」のようなものとも言える。

そのおまけが偶然「意識」を持つようになり、いつしか意識自体が主であると誤解を始めたのが現在であり、DNAの解明や遺伝子操作、クローン技術などは主従逆転の試みの一環であるかのように思えてくる。

少なくとも言えるのは、読み終える前と後で景色が違って見えるということ。

この感覚が今後どのように作用するのかはまだ想像がつかない。生命というもの、死というものを詳しく知ることで、愚かな行いが減るのではないか。予感はある。

著者について

1938年東京生まれ。お茶の水女子大学を卒業後、コロンビア大学大学院を終了。慶応義塾大学医学部助手、三菱化成生命科学研究所主任研究員をつとめる。78年、病に倒れ、83年同研究所を退職。現在はサイエンスライターとして、生命科学の立場から「生命とは何か」を問いつづけている。『お母さんが話してくれた生命の歴史』(岩波書店、産経児童出版文化賞)、『卵が私になるまで』(新潮選書。講談社出版文化科学出版賞)、『二重らせんの私』(早川書房、日本エッセイスト・クラブ賞)、『遺伝子医療への警鐘』(岩波書店)など多数の著書がある。 — 本書より引用

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