『太陽を曳く馬』高村薫【読書感想】
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太陽を曳く馬のあらすじ
合田雄一郎がミレニアムを挟んで挑む二つの事件。立ち塞がるのは21世紀の思考回路! 『晴子情歌』に始まる三部作完結篇、現代の東京に降臨!惨劇の部屋は殺人者の絵筆で赤く塗り潰されていた。赤に執着する魂に追縋る一方で、合田は死刑囚の父が主宰する禅寺の施錠をめぐって、僧侶たちと不可思議な問答に明け暮れていた。検事や弁護士の描く絵を拒むように、思弁の只中でもがく合田の絵とは? — 本書より引用
読書感想の前にシリーズ前作・前々作を振り返る
『晴子情歌』『新リア王』と続いた長編三部作の最終編であり、久方ぶりに合田雄一郎刑事が登場する作品。
本書を読み進めるにあたっては前二作から引き続き登場する人物たちの背景を簡潔に整理し、メモを記す。
晴子情歌について
この作品は「福澤晴子」という女性が、遥か海の向こう遠洋漁業船に乗る息子へ宛てた百通もの手紙が全編を貫く長編であり、それまでの著者による作風が変化を遂げた作品でもある。
手紙の内容は、晴子自身が生き抜いた戦前戦後の日本であり嫁いだ先の家主の生業である中央・地方の政治であり漁村・農村の郷土の姿であり、そしてそこに生きた本人含む日本人たちの姿を浮かび上がらせるものである。
「晴子」の人生は大変な起伏に富んでいる。早くに両親を亡くし弟妹たちとの一家離散を余儀なくされ、奉公先である津軽の大家「福澤家」の四男「淳三」に嫁ぎ、淳三が出征中(太平洋戦争)の間に淳三の兄である長男「榮」の子を身籠る。この子ども「彰之」がのちに大量の手紙を送り宛てることとなる相手である。
福澤家直系の血筋でありながら外腹の子であるという複雑な立ち位置が、最高学府を出ていながら遠洋漁業へと彰之を向かわせたのか、やがて彼は船を降り、次作では出家し雲水となる。
あらすじ 遥かな洋上にいる息子彰之へ届けられた母からの長大な手紙。そこには彼の知らぬ、瑞々しい少女が息づいていた。本郷の下宿屋に生まれ、数奇な縁により青森で三百年続く政と商の家に嫁いだ晴子の人生は、近代日本の歩みそのものであり、彰之の祖父の文弱な純粋さと旧家の淫蕩な血を相剋させながらの生もまた、余人
新リア王について
この作品も前作同様、大河小説のような作風を引き継ぎ、その内容はひたすらに親子(「榮」と「彰之」)の対話である。
榮は高度成長をとげた日本の激動期において国政の中枢で立ちまわってきた男である。晩年に差し掛かった大物政治家がある日、会期中の国会をふと抜け出し、船を降り西津軽の草庵に籠もる息子をふらりと訪ね問答が始まる。
二人の語りを通じ、物質的栄華の頂点を極め80年代の終わりを迎えた日本とは、日本人とはなんであったかを考えさせられる。
この時、彰之には学生時代に同棲していた女性の訪問を受け、二人の間に子どもができていたことを知らされる。名前は「秋道」、長編三部作の最終編『太陽を曳く馬』の中心人物の一人である。
あらすじ 保守王国の崩壊を予見した壮大な政治小説、3年の歳月をかけてここに誕生! 父と子。その間に立ちはだかる壁はかくも高く険しいものなのか――。近代日本の「終わりの始まり」が露見した永田町と、周回遅れで核がらみの地域振興に手を出した青森。政治一家・福澤王国の内部で起こった造反劇は、雪降りしきる最果
太陽を曳く馬の感想
本作は、いよいよ21世紀の日本であり現代に追いつくとともに、著者が多くの作品に登場させてきた「合田刑事」が久々に登場、福澤の末裔たちと邂逅する。
また、前二作は大河小説とも言える作風であったが、本作ではそれまでの事件を軸に展開するものと前二作の作風がひとつとなった印象を受けた。
そして恐らくは著者が初期から描いてきた人間の持つ業のようなもの、晴子情歌から続いてきた日本人がこの島国で生きてきた「時代」あるいは「歴史」、そしてこの先の未来への暗示といったものを1つに紡ぎあげた作品にも感じられた。
ひとつ目の事件 ー「芸術編」とする
東京のとあるアパートの風呂場で若い女性が殺害され、その傍らには新生児の死体があった。さらに隣の一軒家の玄関では若い男性の死体が発見される。
新生児を除き、いずれも玄翁(げんのう、カナヅチのこと)で頭部を一撃されたことによるもの。犯人は殺害された女性と同居していた「福澤秋道」であり、彼は先天的に他者や外界を認識する能力に難がある。
しかしその後の捜査~裁判において司法は完全に敗北する。物証、状況証拠はあるものの、動機が解明できないからである。
秋道の凄惨な事件は、彼がアパートで絵を描いている最中に聞こえてきた声、音を消し去りたい、そのためには頭を消さなければならない、との考えから起こした行為であると本人は証言する。数々の証言からこのことは事実であろうと推測されるが、司法はある筋書きに元づいて裁判をすすめ死刑判決がくだされる。
そう、秋道は絵を書く者であった。といっても事件を起こした時に描いていたものは部屋の壁にバーミリオンという赤系の色で埋め尽くされていた抽象画のようなものである。
秋道に関連して多くの芸術に関する話しが語られ、これが非常に興味深いものであった。 かつて秋道に興味をもち近づいてきた者たちが捜査段階や法定で証言をするのだが、そこでは現代アートについての話しが登場する。
そして、死が確定した息子に対し、父である彰之はようやく積極的に息子と向き合おうととった行動は絵を書き続けてきた息子が見ていた世界を知ることだった。人類が壁画時代から行ってきた2次元で表現をおこなう行為の歴史をたどり、見えてきたことを塀の向こうの息子へと書き送り続ける。
私は芸術に疎く、抽象画というものに至ってはほとんど理解し得ないことばかり。だが、彰之が絵画の世界の扉を叩き辿った先で現代抽象画について秋道に書き送る内容から、これまでの価値観を一変させられるに至った。
私はさらに考へてゐます。ときには寫實の技を存分に活かして心象の世界を豊かに可視化し、またときには高度に抽象化された圜形で世界を記號化することも知つてゐた先史時代から三萬年が過ぎ、描く者としての人は二十世紀につひに純粹抽象に行き着いたのでした。描く身體に直結した存在の手觸りと、心象と、眼に見える色とかたちの自在で密な交換からはるかに遠く離れて、現代の畫家たちは自らの眼球を反轉(はんてん)させて背後の腦を覗き込むのです。これは、どこまでも色とかたちと意味に溢れ續ける世界に立ち向かふ藝術のエネルギーが、二十世紀にはもはや盡きつゝあるといふことかもしれません。— 本書より引用
そうしてさらに彰之は、行き詰まり調和を感じることができなくなった世界を、画家たちは色と線と面に分解し、ついに十分な面積を持つ色の光に行き着いた者たちが現代抽象画を生み出したと言う。そしてまた、秋道が事件を起こした時に描き続けていた圧倒的な赤い光の正体もまたしかりであると。
父親から送られてくる手紙を受け取る秋道からは返事が来ることはなかったが、彼が父をどう感じていたのだろうか、やはり何者であるかもわからないまま刑が執行されたのか気がかりではある。
この手紙のなかでその「十分な面積を持つ色の光に行き着いた者」の一人として「マーク・ロスコ」という画家の名前が登場する。本作のカバーに用いられたのは彼の作品である。
マーク・ロスコの絵を見たことを彰之に話した青年がもう1つの事件で亡くなる人物である。
マーク・ロスコ(1903年9月25日-1970年2月25日)はロシア・ユダヤ系のアメリカの画家。一般的には抽象表現主義運動の作家とみなされているが、ロスコ自身はいかなる芸術運動にもカテゴライズされることを拒否している。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングとともに戦後アメリカの美術家で最も有名な1人としてみなされている。
ふたつ目の事件 ー「宗教編」とする
もうひとつの事件、都心に豪奢な構えを持つ禅寺で癲癇持ちの雲水「末永和哉」が寺を抜け出し自動車事故により死亡する。寺と彼の両親の間で和哉の病気を考慮し注意義務の協定を結んだにもかかわらず死亡したことで、両親は久米弁護士を頼り訴訟を起こす。この弁護士は、秋道の事件を受け持った過去がある。
合田刑事はこの事件の捜査に取りかかるが相手は禅寺に住まう者たちである。文字通り「住む世界が違う」者たち相手に捜査は難航し、事件の真相に迫ろうと捜査を進めていく過程で仏の世界へと深く潜っていくことになる。
過去の著者の作品からは「神」の存在を感じることが多々あり、「仏」の話しが前作から登場したことについては非常に驚くというか新鮮な思いがした。また、末永青年はかつて学生時代にオウムの道場に通っていた過去がある。世紀末に起こったテロ事件をはじめ仏教とオウムの違いとは何か、なぜ人はオウムが誕生し集まっていったのかなどにも触れている。
ちょうどこの捜査を行っている時期は2001年の9月であり「アメリカ同時多発テロ事件」が起きたことを合田刑事は例の報道映像を通じて知ることとなる。世紀末の日本で起きたテロとアメリカのテロ、市井の一人の人間では抗いようのない、しかし同じ人間が起こした出来事の前で合田は呆然と立ち尽くしうろたえる。
その様を読んでいて、かつてテレビに出演し語る著者のことを思った。内容は政治であったり社会であったりいくつかの映像を見た記憶があるが、そこでの著者は何というか、ひどく生真面目であるものの人生観が希薄な印象であった。
この、大きな出来事を前に立ち尽くしただうろたえるだけの合田と著者の姿が重なった。しかし、テレビで見た時の著者が話す内容にはずいぶんと首を捻ったものだが、合田を通じて著者が吐露する言葉はどこまでも深く胸に染みわたる。著者は生粋の物書きなのだ、などとひとり納得する。
三部作を通じて、読み終えて今
仏教を超え、宗教という広く深い世界へと潜っていた合田はひとつの結論を得る。そしてまた、まだ若いと言える身でありながら前作で両親を亡くし、産みの父を亡くし、内縁の妻を餓死で失い息子を絞首刑で失って孤独の身となって草庵を出た彰之も何がしかの答えを拾い上げたのだと最後の手紙からそう信じたいと強く願う気持ちとなった。
人はなぜ絵を描くのか、人はなぜ宗教をもち坐るのか。本作は壮大なテーマを描き続けてきた三部作の最後にふさわしい根源的なテーマへとせまる作品である。
読み終えて、事件を追い宗教の海に潜った合田と、息子が見ていた世界を追って芸術の海に潜った彰之がわたしの中でひとつに重なった。
少し感想から脱線するが、マーク・ロスコの絵は2015年11月時点において、千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」という美術館で見ることができる。
DIC川村記念美術館 | Kawamura Memorial DIC Museum of Art
千葉県佐倉市にある20世紀美術を中心とした美術館です。北総台地と呼ばれる緑豊かな自然環境の中にあります。来館情報や展覧会、コレクションについてご紹介しています。
また、2009年12月27日にNHK放送の「日曜美術館」で著者は「世界と人間の身体が幸せな形で調和していた世界が二十世紀の頭には失われたと感じていた人達がいた」と語っている。
その時代から二十一世紀の今日まで、一世紀を著者は3つの作品で描いた。しかし人類は調和を取り戻すどころかますます混沌としているように感じる。
自分という存在が過去から続く歴史の果てにあるのだということを実感するための三部作であったように思う。
著者について
高村薫/著
タカムラ・カオル
わが国を代表する小説家、言論人。『黄金を抱いて翔べ』で日本推理サスペンス大賞を受賞して作家デビュー。『マークスの山』で直木賞を受賞、以降も数々の文学賞に輝いた。『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』の長編三部作が注目を集め、殊に『新リア王』は、親鸞賞を受賞するなど、仏教界に衝撃を与えた。『神の火』『レディ・ジョーカー』『李歐』『冷血』など、著書多数。 — 本書より引用