文鳥と暮らす ~これまでの1年をふり返って【日記】
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現在の暮らしが始まってから、約1年が経過した。人間2名(わたしともう1名、以降「同居人」と呼ぶ)のほか、小鳥、カエル、カブトムシの幼虫など、多様なメンバーによる共同生活だ。
これまで鉢植え1つ部屋に置いたことがなかったわたしにとって、鳥・植物・昆虫・人間が渾然一体となって暮らす生活は、驚きと発見の日々だった。
これら多様な同居メンバーにおいて、もっとも大きな存在感を発揮しているのは、「シナモン」という種類の「文鳥」である。そのちいさな体にやわらかい羽毛をまとった「彼」は、自由気ままに美声を響かせ、毎日を元気いっぱいに過ごしている。
この1年間のあいだ、共に過ごし発見した文鳥のあれこれを、メモ代わりに記録しておきたい。
文鳥とは?
野生で見かける機会がまずないこともあり、それまで私はその生態を知らなかった。わたし同様、文鳥とはなんぞ?という方のために簡単な参考情報を。
暖かい地域にルーツがあるそうで、寒い時期はケージに設置した専用のヒーターの上に、ちんまり乗っていることが多い。古くからペットとして飼われていた歴史があり、日本では江戸時代のころから親しまれていたようである。
文鳥と暮らす
もともと同居人がヒナのころから世話をし、無事に1歳をむかえたばかりの文鳥だ。昨年の今ごろ、住み慣れた環境から移動用のちいさなカゴにゆられ、現在の家へとやってきた。
正確には引っ越しまえから面識はあったのだが、カゴの外にいる彼と対面するのはその日がはじめてだった。慣れない環境にすっかりおとなしくなってしまった彼は、同居人の近くを離れようとせず、なかなか「これからよろしく」のあいさつができなかった。
それでもそっと指を差しだすと、ピョンっと指のうえに乗ってくれた。ほんの数秒の短い時間だったと思う。それが文鳥に触れた、はじめての瞬間だった。
春の換羽と環境変化に順応しようとがんばる文鳥
あたらしい環境とあたらしい関係に慣れるため、彼が要した努力は相当なものだったと思う。またタイミングの悪いことに、彼にとってはじめての「換羽」の時期と重なったことが、ストレスをよりいっそう大きくしてしまったように思う。
美しい羽根が抜け、新しい羽根が生えてくる体験は、たいへんなエネルギーを必要とし、またストレスをともなうのが見ているこちらにも伝わってきた。からだがムズがゆいのか、頻繁にくちばしで羽づくろいを行い、「ピチチチッ!」っとイライラをぶつけてくる。
10日ほどは要しただろうか。羽がキレイに生えそろうころには、だいぶ落ち着きを取り戻しており、わたしともいつの間にやら一緒に遊んでくれるようになっていた。
たとえるなら、人間でいうところの思春期を迎え、親の都合による転勤と新たな家族との生活という大きな変化に直面したようなもの?かもしれない。内と外、両面からの苦難を乗り越えてみせ、新しい羽根をその身にまとう彼の姿は、以前よりも凛々しく見えた。
また、それまでまったくの他人であり、かつ異種でもあるわたしを、家族のように受け入れてくれた。彼の温かさに、深い感謝の気持ちがわいてくるのだった。
夏のはじめ、文鳥の無双モードがはじまる
換羽を終え、環境にも慣れた彼は、いよいよ本領を発揮する。
最初の夏、まだ遮光カーテンを用意していなかったこともあり、早朝の外のようすは彼に筒抜けだった。日の入りとともに軽快なご機嫌ソングが始まるようになる。
21世紀のホモサピエンスは、日の入りとともに目覚めないことを彼は知っている。ケージ内にしつらえたオモチャの鈴を鳴らし、「水を取りかえて!」「ごはんも足して!」と催促してくる。
ねむい目をこすりながら「おはようおはよう」と声をかけ、ケージ内をきれいに掃除する。水を替え、ごはんの「混合シード」も足してやる。ちなみに「混合シード」は複数の穀物の種子が配合されたもの。彼のお気に入りの種子は、朝方にはあらかた食べてしまうため、「はやく追加して!」となるのだ。
この掃除をしているあいだも容赦がない。ケージに手をつっこむと、ピチチチッと言いながらつついてきたり、ふき掃除をする手のうえに乗り歌いはじめる。
ここでふと気がついたのだが、生物進化の頂点が人間であるというのは間違っているかもしれない。江戸時代に文鳥が日本へ渡来してから400年以上、彼らは人間たちを執事のごとく付き従えることに成功している。
秋に感じた文鳥との超えられない壁
秋も深まるころには、地道な世話と遊ぶ時間の積み重ねにより、互いの距離はすっかり縮まったように感じていた。指をオーケストラ指揮者のように振ると、求愛ソングを歌ってくれたりもする。
しかしながら、確実に超えられない壁がある。それは、育ての親である同居人とわたしは、彼の中で明確に区別がなされているということだ。
いちばんの違いは「手乗り」である。彼がもっとも安心し、無防備な姿をさらすことができるのは、同居人の手の平のなかだ。まあるくからだを埋め、同居人の頬ずりを受けているとき、目を細めて安らぐ様子はなんど見ても感動を覚える。
彼は、この手乗りをわたしに許すことはないのだ。
また頬ずりもしかり。以前、同居人が頬ずりしているあいだに、こっそりわたしが顔を近づけて入れ替わる、ということを試した。しかし、すぐに「なんかちがう!?」と気づかれてしまい、「ピチチチッ!」とするどい叱責を受けてしまった。
淋しい気持ちがあるのは正直なところではあったが、それ以上に彼が幼いころから育ててくれたのは同居人なのだ、としっかり理解していることに大きな驚きと感動があった。
犬がそのように人間たちを区別する話は聞いたことがあったが、ちいさな彼も決して親を忘れないのだろう。
冬に1度だけ起きた奇跡の手乗り
年末年始、同居人が実家に里帰りをしているあいだ、彼はわたしと2人で年を越すこととなった。
冬のあいだ、眠るときケージにかける布を厚手のものにしてあるのだが、やはり冷えるのだろうか。「ピッピッピッ」と呼ぶので出してやると、部屋のなかをパタパタっと一周したあとわたしの手の平に着地し、そのままスッと体を丸めたのだ。
手の平から伝わる体温が心地よいのか、身じろぎもせず落ち着いた様子だ。頬ずりにチャレンジするような真似はせず、そっと見守ることにした。
どのくらいの時間であっただろうか。手の平の上に、羽毛のやわらかさと温かな体温があった。ちいさいけれど、しっかりとした生命の重さを感じた瞬間だった。
文鳥と暮らす、2度目の春
書ききれないほどの出来事がたくさんあるけれど、あまりに長くなり過ぎてしまう。また思いついたときに記録していきたい。
こうやってふり返ってみると、すべてが宝物のような時間であり、その機会を与えてくれた同居人と彼自身に、いくら感謝してもしきれない。そして、これからもともに過ごせる時間を大切にしたいと強く思う。
次に訪れる、3度目の春にむけて。