石を積む人【日記】
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近所の公園の一角に大量の石が積んである。
その石の数はいくつぐらいあるのだろう。
数百、あるいは千以上になるかもしれない。
人工的に作られた公園で石が自然増殖することは考え難い。
それらは誰かがこつこつと積み上げた結果である。
というのも、その石の山のすぐそばに「ここに石を置かないでください」と、役所の立てた看板が立っているのだ。
そしておそらく私設のものと思われる、やや強めの言葉を用いてその行為を批判する貼り紙も貼られている。
そう、その公園の一角は、「石を積む人」と「石を積ませたくない人」の攻防の舞台である。
この光景を最初に認識したのはこの町に引っ越してきた4年前のことだ。
その時すでに石はうずたかく積みあがっており、注意書きも立てられていた。
わたしが気が付くはるか以前からこの戦いは繰り広げられてきたと思われる。
わたしが観察を始めてから今日までのあいだ、一度、すべての石が撤去されていたことがあった。
「戦いは終わったのだ」
わたしはそう思った。とくになんの感慨もなかった。
だが数日後には、また再び石が積み始められていたのだ。
「石を積む人」は再び立ち上がった。
交通の妨げになったり誰かが直接的な被害を被ったりはしていないとは思うのだが、公共の場とはいえ法的に、道徳的にも否定される行為である。
だがこういうとき、わたしの悪いクセというか、わたしの中に非常識な部分があることを認識する。
なぜ「石を積む人」は、石を積むのだろうか。
住民や役所と一緒に、止めさせる側に立つことがでない。
なぜ積むのか、撤去されてもやめることなく積み続ける理由は何であろうか、そのことに全意識が持っていかれてしまう。
ただの嫌がらせであればあまりに不毛ではないか。
きっと、石を積まなければ、積み続けなければ、人のかたちを保っていられないほどの理由があるのではないか。
日々積みあがっていく石のひとつひとつになにかしらの感情がこもっているように感じ始める。
この「石を積む」「石を積ませない」の攻防は、その理由を理解し解きほどかなければ、真の終焉を迎えることができないのではないか。
だが一個人の特異な行為に割く社会的コストなど現代には存在しないのではないか。
それでも「石を積む人」の魂が救われることこそが、唯一求められることではないか。
考え出すと止まらず、こんな時間にこんな文章を書いてしまっている。
これまでも眠れず真夜中に公園を散歩するときはいつも「遭遇するのではないか?」と予感する。
そして、わたしは尋ねなければならない。
「なぜ、石を積むのですか」と。
心を向かい合わせて話を聞かなければならない。
「石を積む人」の魂の救済のために。
だが残念ながらまだその機会は訪れていない。
「積み続けられる石に対する住民意識調査5か年計画」などであればよいのだけれど。
いい加減、寝なければならない。