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思考の記録【日記】

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ポエムみたいな最近脳内をぐるぐると巡っていることのメモ。

他者を傷つけること・他者に傷つけられること

私はあなたと同様に言葉によってひどく傷つけられたことがある。

その時の痛みや怒りや悲しみは、寸分の熱量を失うことなく今でも襲い掛かってくることがある。生涯忘れないのだろうと思う。

一方、私はあなたと同様に言葉によって誰かをひどく傷つけたことがある。

受けた傷への執着を考えてみれば、恐らくその相手も同様の痛みに苦しむことがあると想像がつく。

申しわけない思いだが時間を巻き戻すことはできない。つまり私はあなたと同様に取り返しのつかないことをしたのだ。

刻まれてしまった心の傷は「取り返しがつかない」ことのひとつだ。(その究極は「命」を奪うこと)

不可逆な過ちは犯すべきでないと思うが、いうほど我々人類は理性的でないし合理性を謳うわりに、矛盾に満ちている。

オンラインの世界ではそんな我々の日常的な思考やふるまいが可視化されている。

当初から興味深く眺めていた世界だが、昨今は見ていて気持ちが参ってしまう場面が増えてしまった。

長年使用してきたブックマーク型ソーシャルサービスはユーザが増え、多様性が増すかと思えば偏った思想の発言が数を占めることがしばしばで遠ざかりつつある。

こんなことは繰り返されてきた歴史であり、これからも繰り返される未来史なのだろう。

攻撃は生物が生存するための手段のひとつであり、我々人類が本来持っている綿々と受け継がれてきたモノだ。

そこから言語を発明し、自他を意識し、さまざまな概念を生み出すことで「本能と理性がせめぎ合う世界」を構築した。

こんな取り留めない思考を垂れ流す。

オンラインにおける公共性

建前として、いや事実としてオンラインの世界はパブリックである。

端末を用意すれば誰でも参加でき情報にアクセスできる。

その公共の場において、(実際に音量はわからんがニュアンス的に)大声で、およそ人前で発するべきでない言葉が日々垂れ流さる。そんな状況がいまや日常化している。

匿名性を隠れ蓑にそのような発言をしている主も実際にリアルで対面していれば、その多くは社会的なふるまいをするのではないかと思う。

いまのSNSの状況を眺めていると、子どものころを思いだす。

昭和の日本の公共性を顧みる

私は昭和50年代の生まれで高度成長期の終わりからバブル崩壊までを青春時代として過ごしてきた。(エリアは東京近郊)

今でも思い返すことができる子ども心に刺さった公共の場における負の光景をいくつか列挙してみる。

  • 至るところにかみ捨てたガムが落ちている。(靴の裏にガムがついてムカつくこと多々あり)
  • 駅のホームが喫煙可のため、朝のラッシュ時ホームの屋根付近が白くモヤっている。
  • 週末、駅前や居酒屋出口付近で酔って立小便しているスーツ姿の大人を見かける
  • カーーーッ、ペッッ、とするヤツがやたらいる。
  • (屋内だけど)ゴールデンタイムのテレビで女性の裸が当たり前のように登場する。

真剣に思いだせばもっとあるし、思い出せたが書かない方がいいなと思ったものもある。

こういった光景は、今では稀なこと、と思う。少なくとも私は見かけることがかなり少ないと実感している。

だが、人間が超自己中心的なふるまいをしたい欲求は消えたのか、というとまったくそんなことはないと思う。

公共の場で自己中を出しづらい仕組みを構築しただけ、つまりフタをして見えないようにしただけなので、行き場をなくした自己中丸出し欲求は匿名で発散できるSNSを格好のフィールドとしたのだろう。

やがてオンラインの世界もクリーンに

昭和から現在にかけ公共の場におけるふるまいが粛清されてきたように、オンラインの世界もルールや罰則が整備され徐々に同様のルートをたどるのだろう。

それでもやはり、われわれ人類が本能的に持っている自己中丸出し全開欲求的なものは消え去るわけじゃない。

さまよい続けまた新たな大暴れできる場所を探し出すのだと思う。

人類はやがて意識高い生物となるのか

マナー違反とされる類のふるまいはどこから来るのか。

まったく学がない私個人的偏見と感覚では生物本来の野生性、原始性みたいなところから来る「自然な衝動」だと思っている。

人類が文明を築き始めてから3~40世紀。

フランス人権宣言からは200年ちょっとしか経っていない。

人権が意識され、他者へのふるまいが変化しだしのはごくごく最近のこと。

生物が進化するには2万年の長い年月を要するという。

脱自然を図り都市化した生活が広がっているとはいえ我々の脳や身体はまだまだ野性味を帯びているのだろう。

だが我々は脱・野生を指向している。自然であることから逸脱することを良しとしている。

人類はなぜ私たちを生み育ててきた自然を遠ざけることを進化として目指すのかは不思議であり興味がある。

土をアスファルトで覆い隠し、家屋は風や日光を遮断し密閉性高め、洋服や靴の進化はガンガン五感を鈍らせる。

社会性の定義やマナー、ルール、ふるまいも同様である。

自己中心的なふるまいは野蛮なものとされ、他者への寛容、受容を良しとする。

平等という概念などは、競争の結果が生存に直結する自然界からはおよそかけ離れたモノだと思う。

だが我々はそれを発明し指向している。激しくせめぎ合いながらも、その指向に傾いていっていると思う。

ただいまは自分たちが生んだ新たな概念と、原始的な本能のはざまにあるのだろう。

生物進化に必要な2万年を経た先に、我々は果たして本能から平等を欲求する生物へと変貌を遂げているのだろうか。

それまでは、変わることなくリアルからオンラインへ、そしてまた別の場所でいつか来た道をぐるぐると回り続けるのだろうけれど。

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